グイノ・ジェラールの説教 



2015 B 年

第23の主日から

王であるキリストの主日まで




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王であるキリストの主日

      年間第23主日B年   201596日   グイノ・ジェラール神父

            イザヤ35,4-7    ヤコブ2,1-5    マルコ7,31-37

   私たちを救う為に、神ご自身が来られると預言者イザヤは宣言します。 私たちをお選びになったこの神は、信仰によって私たちを富んでいる者とする、と聖ヤコブは言い足します。 またこの神は私たちの目と耳を開き、私たちの舌のもつれを解き、私たちのすべてを生かす為に来られます。 私たちと一緒に命の道を歩むように、この神こそが私たちの足を強化し、頑強なものとさせるために来られます。 今日の福音と聖書全体のメッセージは、まさにこれです。

    預言者たちの預言を実現する為に、また全ての病気から私たちを癒す為に、神であるイエスは謙遜に私たちの傍に来られました。 私たちを目の見えない者とし、耳の聞こえない者とし、体の不自由な者とする罪から解放しようと、イエスは来られました。 また、私たちを麻痺させ、神の憐れみの眼差しので、幸せに暮らすのを妨げる全ての災いから私たちを解放する為に、イエスは来られました。 私たちが神に立ち戻って、隣人を批判せず、軽んぜずに、慈しみで満たされた眼差しで見るように、イエスはご自分の愛の豊かさを惜しみなく与えています。 同時に、イエスがご自分の慈しみ深い眼差しの下に私たちをおく理由は、私たちがお互いに相手の意見を良く聞き、はっきりとした言葉で話し合う事を邪魔するものから完全に解放するためです。

    苦しんでいる人々の叫びに対して、私たちが耳の聞こえない人であり、彼らの必要に対して目の見えない人でない為に、預言者イザヤも、聖ヤコブも、イエスも利己主義から離れるように私たちに勧めています。 確かに神はこの世を救われます。 選ばれた私たちを通して、それを行われます。 父なる神の憐れみ深い愛を証しすることが出来るように、イエスにおける信仰は聖霊の賜物で私たちを豊かにしました。 たとえ私たちが気がついていなくても、信仰によってキリストに結ばれている私たちの言葉と行いは、神に栄光を与える賛美と誉れの賛歌になっています。

   第一朗読で預言者イザヤは、「神の復讐と仕返し」を知らせます。 歴史から言えば、それはバビロンに追放されたイスラエル人の近い内に行われる開放と帰国のお告げです。 一般的に言えば、それは人間を傷つけたあらゆる種類の悪に対する神の復讐の日のお告げです。 神がとても良いものとして造られた全てのものが、悪の力で押し流される事、また全人類に対するご自分の救いの計画を失敗させる事を、神はこれ以上耐えることも、辛抱することも出来ません。 「元気をだせ、恐れるな、あなたの神を、見よ、神のあだ討ちと復讐が来る」(バルバロ訳)と喜びの叫びで預言者イザヤは宣言します。 ですから、この喜ばしい知らせに耳を傾けましょう。 喜びの叫びをあげて踊りましょう。 目を大きく開いて、神が私たちの為に行われる不思議な業を仰ぎ見て賛美しましょう。

   神の復讐は、イエス・キリストの内に完成されました。世の罪を背負って、十字架上で命を捧げるイエスは来るべき神の怒りから私たちを解放し(1テサロニケ1,10)、神と和解させ、義としました(ローマ5,9)。そのお蔭で新しい世界が始まりました。  私たちも新しい人となりました(2コリント5,17) この新しい世界の中ですべての人が見ること、話すこと、聞くこと、自由に歩くことが出来ます。 キリストによって神と和解させているこの世界の中で、すべての人は他の人々を兄弟姉妹として受け入れる事も、一緒に神に向かって歩む事もできるのです。 勿論、この世界はまだ完全に実現されていないことをはっきりと認めましょう。 しかし、この世界は約束されているので、希望を失ってはいけません。 むしろ、イエスが教えたように「神の国が来ますように」諦めずに、切に祈り続けましょう。

  イエスはご自分の手を、耳の聞こえない口のきけない人に置く事によって、人を守る動作を現しました。 また、ご自分の指を病気の体の悪いところに入れる事によって、イエスはその人の災いを自分のものとしました。 イエスはいつも人が苦しみを感じるところに憐れみと癒しをもたらすからです。 神もイエスも、遠くから私たちの不幸を見ようとしません。 神もイエスも、私たちの直ぐ傍に来て、その災いをすべて背負います。 このようにして神は私たちを救い、そしてご自分の復讐とあだ討ちを行います。

   今日、イエスが皆様の上にご自分の手を差しのべて置かれますように。 この手が私たちをあらゆる面で癒し、私たちの心から賛美と感謝を湧き出させますように。 そうすれば、私たちは主にあって喜びの叫びをあげて、楽しく踊ることが出来るでしょう。 アーメン。



      年間第24主日 B年  2015913日 グイノ・ジェラール神父

            イザヤ50,5-9  ヤコブ2,14-18  マルコ8,27-35

    イエスは苦しみを受け、祭司長から見捨てられて殺され、三日後に復活するということをあまりの無関心で聞いた弟子たちは、何も理解できませんでした。 ペトロと彼の仲間たちは、イエスが神のメシヤであることをためらわずに宣言します。 しかし、このメシヤが死刑の宣告を受けるという知らせは納得できませんでした。 特にペトロはイエスをいさめて、この話は非常識であると叫びます。 そこでイエスはペトロに「サタン」という名で咎めます。 この言葉はヘブライ語で悪魔を示す前に、まず「人の旅を妨げるもの」を示します。 イエスが言った言葉の意味をはっきり理解させるために、イエスは自分に、もう直ぐ実現されることは全て、自分の後に従うことを決意した人々の運命でもあると説明します。 確かにイエスの弟子になりたい人は、自分の十字架を背負うべきだからです。

   「イエスは神のメシヤだ」と宣言することは簡単です。 しかし「私も、エルザレムへ行って、イエスよ、あなたと死にます」(参照:ヨハネ11,16)と言うのはとても難しいです。 イエスは自分の弟子たちを深く愛し尊敬しているので、これからエルサレムで行われる自分の悲劇的な運命を彼らに隠したくありませんでした。 昔の預言を実現する為に、イエスは死んだ後に復活しなければなりません。 弟子たちは「死ぬこと」の意味はよく分かりますが、「復活する」という意味は、全く分かりませんでした。 「あなたは私を何者だというのか」この質問に答えることによって、弟子たちはイエスのことについて注意深くなるように、そしてイエスの神秘を理解するように招かれています。

  イエスは洗礼者ヨハネやエリヤ、或いはまた昔の預言者のような者ではありません。 イエスは神に遣わされたメシヤであり、自分の死と復活によって、全ての人を救う方です。 第一朗読を通して、預言者イザヤはこのメシヤの使命を思い起こさせました。 このメシヤは、神に揺るぎない信頼を示す苦しみの僕です。 神が必ず自分を守り、助けることをこの僕はよく知っています。 確かに、捕われる時に自分の弟子たちが逃げることやペトロが三回続けて自分を知らないと主張することをイエスは知っています。 そういう訳で、父なる神がイエスの支えとなるのです。 ただ、この父からだけ、イエスは慰めと力を受けるでしょう。 ペトロを厳しく咎めることによって、自分から離れないようにイエスは弟子たちに呼びかけ、同時に私たちにも呼びかけます。 確かに、私たちの心の思いが、しばしば福音的な考えではないことを正直に認めましょう。

  今日、イエスは私たち一人ひとりに「自分を捨てて、自分の十字架を背負って私の後について来ますか?」と尋ねます。 特にイエスの「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである」と言う言葉を思い起こすならば、私たちの最初の反応は、自信を失い、少し躊躇するでしょう。 苦しみと考えるだけで、私たちをおびえさせます、そして誰も失敗で終わる人生を望まないことは確かです。

   「自分を捨てること」とは、聖ヤコブにとっては、苦難にある人々に近い者となって、キリストを真似ることです。 つまり飢えている、苦しんでいる、生きる為に必要なものに欠けている人々に対して無関心にならないことです。 「自分を捨てること」とは、自分が第一の者にならない事、そして全てを支配する事や勝手に全てを決めることを選ばない事です。 「自分を捨てること」とは、相手を裁かずに、批判せずにありのままに受け入れる事です。 「自分の十字架を背負うこと」とは、苦しむことや恥と侮辱を好むことを意味するのではなく、むしろイエスのように、他の人の為に自分のいのち、つまり自分の人生を尽くす事です。 イエスはご自分の受難の意味をはっきりと示す為に「だれもわたしの命を奪い取ることはできない。 わたしは自分でそれを捨てる」(ヨハネ10,18)と言いました。 周りにいる人々のために私たちも自分の人生を豊かに尽くすことが出来ます。 なぜなら、愛によって与えられたものと行われた事が必ず命の泉となるからです。 このことを理解するなら、キリストの次の言葉も簡単に理解できるでしょう「福音のために命を失う者は、それを救うのである」と。

   「命を捨てる事は」ある人の為に、或いは、ある何かの為に死ぬことを意味しません。 そうではなく「命を捨てる事は」ある人の為に生きる事、または、ある何かの為に時間とエネルギーを与えることを意味します。 人々が安全に幸せに生きることが出来るように、自分の人生のあらゆる面を尽くす事こそ「命を捨てる事」です。 今から私たちはキリストにおける信仰を宣言します。 ですからキリストに倣って、すべての人の救いの為に自分自身を捨て、精一杯生きる決意をしましょう。 聖霊の力の内に。 アーメン。



      年間第25主日B年    2015920日   グイノ・ジェラール神父

              知恵2,12,17-20  ヤコブ3,16-4,3  マルコ9,30-37

    神の振る舞いをキリスト者に模範として提案する聖ヤコブは、人間の悪い態度を厳しく咎めます。 神について語る聖ヤコブは、次の特徴のある単語を使います。 それらは知恵、清さ、平和、寛容、理解、憐れみ、善い実に満ちる、真理、義などです。 また人間について語る聖ヤコブは、私たちが聞きたくない単語を利用します。 それらは妬み、利己心、混乱、悪行、戦争、争い、殺意、熱望などです。 この悪い行動のせいで神と私たちの関係が悪くなり、私たちが神の敵となる危険がある(参照:ヤコブ4,4)と聖ヤコブが忠告します。 「求めても与えられないのは、自分の欲望を満足させるために使おうとして、悪い動機で求めるからです」と、聖ヤコブは指摘します。 私たちは神に、日常生活の安全性と自分たちの欲望を満足させるものを求めて祈りがちだと、聖ヤコブは注意しています。

    自分の運命についてイエスが言われたことを忘れ、弟子たちは聖ヤコブが指摘した悪い行いに直ぐに陥って、上席権のために激しく議論しました。イエスが受難を迎える決心をしたにも関わらず、弟子たちは妬みと心の狭量な態度に留まっています。 近いうちに自分が死ぬこと、そして復活することをイエスは、はっきりと教えますが、弟子たちは自分たちの詰まらない、取るに足らない問題に閉じ込もります。 ですから、弟子たちはイエスが啓示しようとする、愛と哀れみの神秘に入ることは到底無理でした。

    イエスは弟子たちに、自分に相応しい場所を示しました。 それは十字架の上です。 偉くなって、一番良い立場を取ろうと競った弟子たちは、イエスの直ぐ傍で留まる為に自分たちが選ばれたことを忘れてしまいました。 ちょうどイエスが子供を選んで、弟子たちの真ん中においたのと同じように彼ら皆がイエスに選ばれました。 イエスの選びは自由であり、そして弟子たちの真ん中におかれた子供が、他の子供でなくどうして自分が選ばれたのかを全く分かりません。 このようにして、イエスは次の事実を弟子たちに理解させようとします。 天の国では人を高めるものは、利益を求めない、昇進の約束なしで、無償で行われる奉仕だけです。 未来を考えて、上席権のために激しく議論する弟子たちに、イスラエルの社会の中で立場のない子供、自由に話すことも許されていない子供を見るようにイエスは勧めています。

    イエスもそして後に弟子たちも、イスラエルの社会から追い出されることになりました。 彼らが公に話せないように、民の祭司長たちが行動しました。 「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される」とイエスはあらかじめ告げます。 弟子は師に勝るものではありません。 いつか、必ず起こる出来事、耐え忍ぶべき苦しみと暴力、終わりまで戦うべき戦いについて、イエスは弟子たちに前もって教えています。 今は役に立たない、無意味な争いの時は終わりました。 世に神の救いを述べ伝える為に、反対、暴力、迫害に直面する準備をする時です。

    このようにして、イエスは弟子たちを高慢や虚栄の幻影から抜きだし、守りたいのです。 「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」とイエスはわざと断言します。 しかし、最後の場所にいることとは、どういう意味でしょうか。 この場所にいる人は「私はこれをしたい」という人ではなく、むしろ「これこそあなたがするべきことだ」と他の人から言われる人で、文句や苦情や言い訳をせずに、頼まれたことを実行する人です。 最後の人は、自分の場所を選ぶことができません。 なぜなら、その人は残っている場所しか受けないからです。 最後の人は、他の人々が残したものしか手に入れられないからです。 イエスの弟子たちは、既に自分たちの場所を受けました。 それは、イエスのすべての弟子に与える場所であり、つまり、イエスの直ぐ傍に留まる場所です。 そこで弟子たちはイエスの言葉に耳を傾け、イエスに倣うことを学びます。

    互いに歓迎し合う事、即ち,互いに仕え合う事とは、イエスを真似ることです。 イエスの名によって誰かを歓迎することは、神ご自身を歓迎することです。 なぜなら、父なる神はキリストを遣わし、キリストと共に働き、キリストのうちに人に示された愛が、完成しますから。 父なる神に遣わされたイエスが、自分自身を人々の手に引き渡されることによって遜って、最後の人、全ての人に仕える僕となりました。 キリストに学ぶよう召されている私たちが、キリストのように考え、話、行い、愛することの大切さを理解し、また聖霊の助けによってこの偉大な神秘を謙遜に生きることができますように。 アーメン。



       年間第26主日 B年  2015927日     グイノ・ジェラ−ル神父

              民数記11,25-29  ヤコブ5,1-6  マルコ9,38-43,45,47-48

    「わたしたちに逆らわない者は、私たちの味方なのである」とイエスは言いました。 キリストの味方になるか、或いは彼に逆らうか、ここでは他の選択がありません。 人は決して同時に、両側に立つことが出来ないからです。 しかし私たちの心の中では、混乱があります。 と言うのは、私たちは神の民として神の味方ですが、しかしそれは完全ではありません。 また、罪びととしての私たちの生き方は、神に逆らっていますが、しかしそれも完全ではありません。 確かに私たちの眼差し、考え、言葉は神の眼差し、考え、言葉のように清く澄みきったものではありません。 私たちにとっては、全てが罪の暗闇で被われていますが、神は全てを光の内にご覧になります。

    幸いなことに、神は私たちの生温い生き方の中に、良いものと悪いものを見分けておられます。 神は「わたしたちの造られた有様を知り、わたしたちが塵にすぎないことを知っており」(詩編103,14)私たちの内に、良い麦と毒麦が混ざり合っていることも、また、どのようにしてそれを切り離せばよいかも、よくご存知です。 時が来れば神は必ずそれを行います。 同時に、私たち自身が自分たちの内にある良いものと悪いものを見分けるように、神は要求されます。 イエスはそれをこのように表現しました。 「もし足、手、目があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい」と。 そのように言ったイエスは、私たちの体の中で神に反するものや神に逆らうものを見分けるように具体的に勧めました。 イエスはいつも私たちの眼差しを正しく導こうとします。 それは私たちが自分の人生にある光と暗闇、罪の種と聖霊の賜物を切り離す為です。

    宇宙万物を造り始めた時に、神は命が溢れるように暗闇と光を分けました。 神の似姿で創られている私たちは、 神の命が自分の内に豊かに溢れるように、神を真似て自分たちの心の闇と光を分けなければなりません。 それが完全に出来るものは、赦しの秘跡です。 確かに、自分の犯した罪を認め、それを告白する人は、悔い改める罪びとの集いから聖人の集い、つまり聖徒の交わりに移されたいと言う希望を神に具体的に現しています。 赦しの秘跡は光の秘跡ですので、それを拒む人々は罪の暗闇に留まり、神に逆らっている人々の群れに属することを選んだことになります。 しかし、神の味方であることの大切さを理解した人々は度々、少なくとも月に一度、赦しの恵みを受けます。 自分の足や手を切る事、自分の目をえぐり出す事とは、自分の罪を告白する事であり、そしてその罪を悔い改める事です。 赦しの秘跡によって人が神の光の内に留まり、神の光の子として生きるのを支えます(エフェソ5,8)。

    イエスに従うことによって、私たちは自分の生き方に満ちている暗闇と光を切り離す方法を学ぶ事が出来ます。 自分たちの内に神の味方であるものと神に反するものを認めて、見分けることが出来るように、また 私たちがこの世を照らす光となる為に(マタイ5,14)、イエスは私たち一人ひとりに聖霊の賜物を与えてくださいました。

   「キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける」とイエスは断言しました。 他の信者と和解する事、他のキリスト者を赦す事、他のキリスト者に信頼を示す事、或いはずっと教会から離れている信仰の兄弟を取り戻す事など、それはキリストに一杯の水を飲ませる事です。 自分が罪びとである事実を認める為に、お互いの助けが必要です。 同時に、自分の内にあるキリストの現存を見分ける為にも、お互いの助けが必要です。 互いをキリストの体の部分として見、互いをキリストの名によって歓迎するなら、自分の内にキリストの現存を見分けるでしょう。 その発見をすればするほど、私たちは自分の内に生きているキリストを体験し、同時に自分が罪の共犯者であることもよく悟り、早めにこの状態から出る決意をするでしょう。 そうすると、私たちはキリストの味方である事を現し、また暗闇の淵に人々を落とそうとするサタンとの関係や罪の繋がりから切り離した事を私たちは証ししています。

   聖人の交わりに入る為に、罪びとの集いから離れる事を選ぶ事によって、私たちはこの共同体の上に神の愛の光が注がれる事を可能とします。 しかし、自分たちの罪と一緒に生きることを好むなら、サタンから来る不和、乱雑、嫉妬、悪口などが私たちのこの共同体の上に注がれる事を許すことになります。

  悪の根を全てなくす為に、意志を持ってある人は足を切り、ある人は手を切り離し、ある人は目をえぐり出さなければなりません。 その結果、きっと私たちは障害のある人になるに違いありません。 しかし喜びましょう。 私たちは必ず神の国の結婚披露宴に入る確信を受けるでしょう。 なぜなら、体の不自由な人、目の見えない人、歩けない人、耳の聞こえない人は皆この披露宴で神の慈しみを永遠に味わうからです(ルカ14,21)。 アーメン。



      年間第27主日 B年   2015104日  グイノ・ジェラール神父

              創世記2,18-24  ヘブライ2,9-11   マルコ10,2-16

    愛する人々にとっても、愛せない人々にとっても律法は役に立ちません。 自分の燃える愛を守る為に愛する人たちはルールを必要としません。 同様に、決まりがあってもなくても、もう愛せない人々にとっては冷めてしまった愛をとり戻すものは、何もありません。 律法は役に立たないだけでなく、愛をセーブするだけです。 どれ程の夫婦が、既に愛が冷えているにも拘らず、律法を守る為にだけ一緒に暮らし、まるで籠に閉じ込められている小鳥のように相手に対して無関心に暮らし続けていることでしょう。 相手に対する無関心が、お互いの間に柵を作り、彼らが昔深く味わっていた愛と慈しみと言う、相手を思う心を新たに見出す希望を妨げているからです。

    「夫が妻を離縁することは許されていますか」とファリサイ派の人々がイエスに尋ねました。 イエスは「モーセはあなたたちに何と命じたか」と答えて、すぐ次のことを加えます。 「神が結び合わせたものを、人間が離してはならない」と。 イエスは初めから律法の判断基準に自分を置くのです。 イエスはモーセが伝えた律法は神から来たものだとファリサイ派の人々に思い起こさせます。 この律法は神的であり、すべての妥協を許しません。 イエスの考えでは、人が勝手に自分の好きなようにすることは出来ません。 ルールなしでは愛はありません。

  イエスの時代のファリサイ派の人々は、モーセが許した離縁を実現するために否定できない有効な理由について自問します。 彼らは妻を離縁するための必要な咎めと条件を知りたいのです。 特に、彼らは男性として、女性のすること全てを支配しコントロールして、そして裁きたいのです。 ファリサイ派の人々は、夫と妻を繋ぐ律法、あるいは、離縁する律法を自分の力で支配することを目的としています。 この高慢な要求に対してイエスは、はっきりと断言します。 「天地創造の初めから、人間を男と女に造られた。 それゆえ、人は父母を離れ、妻と結ばれ、二人は一体となるのです」と。

  この大切なことを思い起こすことによって、イエスは男性である夫たちが、女性である妻たちを同じ権利を持つパートナーとして受け止めることを強く求め、主張します。 「他の人をめとる為に妻を離縁する夫も、夫を離縁する妻も姦通の罪を犯しています」と。 このようにイエスは神の掟の力を断言し、そして神は夫婦の一致を望んでいることを思い起こさせます。 即ち、女性の権利が男性の権利と同じように認められない限り、夫婦の間に一致が全くないことをイエスは教えています。 女性や妻だけではなくファリサイ派の人々も律法に従うようにと、イエスは強制します。

   神の掟を認めそれに従うことは、皆が平等で、この掟の下に生きることを承諾することです。 神に従う夫、あるいは妻は夫婦生活の問題について、自分が全く関係のない態度を取って、相手を咎め裁くことができません。 愛は、自由に選んで結婚した夫あるいは妻を裁くことを禁止する掟です。 愛は誰であろうと裁く事を許しません。同時に、愛は耐え忍んだが、とうとう我慢出来なくなり離縁した夫婦を裁くことを厳しく禁止しています。

  最後にイエスは、離婚についての結論として、子供たちに示す尊敬について語ります。当時の考え方として子供たちは未完成な者であり、特に律法を守る事が出来ないと思われていたので、大人たちから軽視されていました。 この態度に対してイエスは憤り、子供たちを守り、抱き、祝福します。 そして彼らを大人たちの模範とします。 掟があってもなくても、神が豊かにくださる愛の内に私たちはお互いを受け入れ合うことや誰も軽んじないようにする義務を持っています。 この重大な責任を理解し、生涯にわたって私たちがその責任を果たす事が出来るように、聖霊が力強い助けを与えてくださいますように。 アーメン。



        年間第28主日 B年   20151011日  グイノ・ジェラール神父

               知恵の書7,7-11  ヘブライ4,12-13   マルコ10,17-30

    「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいのでしょうか」とある青年はイエスに聞きました。 しかし、彼が受けた答えはあまりにも期待外れの返事でした。 「掟をあなたは知っているはずだ」。 確かに、この青年は掟を知っていて忠実に行い、彼には非の打ちどころがありません。 普通イエスは完璧な人物が好きではありません。 なぜなら、イエスは「失われたものを捜して救うために来た」(ルカ19,10)からです。 しかしながらイエスは青年を見つめながら、ご自分の慈しみと愛を彼に表します。

    疑いもなくこの青年は獲得するものとして永遠の命を考えていました。 しかし永遠の命は何かをすることではなく、何かを取得するものでもありません。 永遠の命は、神の言葉によって導かれながら歩み続ける道です。 「あなたに欠けているものが一つある。 行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。 そうすれば、天に富を積むことになる」とイエスは青年に勧めます。 なぜなら、すべてを捨てて貧しくなる事や人生を空の状態にする事によって、人は神の知恵に与かるようになるからです。 「神お一人のほかに、善い者は誰もいない」とイエスは断言します。 この青年の模範的な生き方は、彼の努力と寛大さの結果であるだけでなく、何よりも先ず神の賜物ですから。

    知恵の書はそのことを上手に教え、理解させます。 「わたしは祈った。 すると悟りが与えられ、願うと、知恵の霊が訪れた」と。 自分の所有する物や自分の行った業や持っている徳を支えとせず、すべてを失っても神を盲目的に信頼する人々にこの知恵は豊かに与えられています。 「知恵の前では金も砂粒にすぎず、知恵とくらべれば銀も泥に等しい」。 知恵とは「ご自分の慈しみで人の心を満ち足らせる」(詩編90,14)神の効果的な現存ですから、この知恵はまた日毎の忠実な祈りの結果として、人が受ける心の叡智であり、神との親しさでもあります。 この知恵を受けるために、人は自己犠牲として、世を捨てて生きることに承諾することが肝心です。

  イエスは福音書のこの青年を愛したので、彼にすべてを捨てるように呼びかけました。 日常生活の物質的な物を集め守るよりも、この青年が信頼の内に神が与える知恵を選ぶようにイエスは誘います。 ご自分の言葉が青年の心に入り込み、満たすようにイエスは希望します。 なぜなら、キリストの言葉は「生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離す」(ヘブライ4,12)からです。 残念なことに、優れた徳と物質的な富に満たされているこの青年は、「この言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去りました」。 ご存知のように、「自然は空の状態を嫌う」のです。 空の状態に直面したとき、欠乏を恐れている私たちは絶えず新しい物を拾い集めることに、疲れ果てています。 私たちはまるで全く底のないバケツを水で無理に満たそうとする人々に似ています。

   しかし、永遠の命、即ち神ご自身と共に分かち合う命は、汲みつくせぬほどの宝物で心を完全に満たすものです。 地上で私たちが見つける物に、この宝物は遥かにまさっています。 それはまた、私たちの日常生活から切り離せない宝物です。 何故なら、世の終わりまでイエスは私たちと共にいるからです。

   明日のことを悩まずに、完全な信頼を持って毎日ご自分の後に従うように、イエスは私たち一人ひとりを招きます。 幸せの時は勿論のこと、特に試練が私たちを襲ってくる時に全てを捨てて、イエス以外に何も支えや避難所としないようにと、イエスは私たちを誘います。 余分な物から解放され、イエスの招きを歓迎し、そして何も心配せずに彼の後を歩みましょう。 イエスこそは永遠の命の道であり、イエスの言葉は「霊であり、命である」(ヨハネ6,63)からです。 アーメン。



        年間29主日B年  20151018日    グイノ・ジェラール神父

              イザヤ53,10-11  ヘブライ4,14-16  マルコ10,35-45

    イエスは、預言者たちが告げたメシアだと弟子たちは認めています。 しかし、彼らは「イエスの国がこの世に属していない」(ヨハネ18,36)ことを全く理解していません。 そう言う訳で、他の人よりも偉くなりたい弟子たちの間で競い合いの関係が始まりました。 「あなたがたは十二の座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる」(マタイ19,28)とイエスは弟子たちに約束したので、早速ヤコブとヨハネは最もよい場所を得るように急ぎました。 しかし、彼らはイエスが以前に「上席を選ぶよりもむしろ末席に座ること」(参照ルカ14,9-10)を勧めたことを忘れてしまっていました。 先を越していたヤコブとヨハネは「栄光のうちにイエスの右と左に座らせてください」とイエスに要求します。 「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない」とイエスは彼らにすぐに言い返します。

   イエスの栄光とは、死ぬために二人の強盗に囲まれて十字架に上げられることです。 イエスの栄光とは、世の罪と罪の結果である死を背負うことです。 イエスの栄光とは、 罪と死に打ち勝つために罪びとの地位にくだることであり、「僕の身分になる」(フィリピ2,7)ことです。 そうすることによって、イエスは私たちを聖なる民に変化させます。

    人々を支配する者の側になる希望をもって、ヤコブとヨハネはイエスに近寄ってきました。 イエスの栄光とは、人々を支配することではなく、人々の惨めさを分かち合い、世の罪を背負う事だということをヤコブとヨハネは理解できていませんでした。 全人類を救うために、イエスは死ななければなりません。 そして復活することによって、イエスはご自分の栄光にすべての人々を与らせます。 この事実をよく悟った聖パウロは「主イエス・キリストによって示された神の愛から、何もわたしたちを引き離すことはできません」(参照:ローマ8,38-39)と説明しました。

    三回続けてイエスは、エルサレムで自分を待っている受難のすべての出来事を詳しく説明しました。 しかし、弟子たちはイエスが打ち明けた言葉に対して無関心で、全く何も理解できませんでした。 一方、イエスは苦しみと侮辱、あざけりと十字架の上で死ぬことについて語ります。 他方では、弟子たちは栄光と勝利、支配と権力、また自分たちの地位の向上の夢想にふけって時を過ごします。 「生れつき耳の聞こえない人よりも、聞こうとしない人は最も悪い人間です」とフランスの諺は教えています。

    「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を捧げるために来た」とイエスは弟子たちに教えていました。 イエスに従うために人は支配と権力のあらゆる形を退け、自分の命を捧げる奉仕を選び、すべての人の僕となるべきです。 これについてイエスははっきり断言します。 「支配者と偉い人たちが権力を振るっている。 しかし、あなたがたの間では、そうではない。 あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の奴隷になりなさい」と。

    今の聖書の言葉を聞いて、おやぁ?と思ったでしょう。共同訳では、「僕になりなさい」と書いてありますが、本当は、イエスは「僕」ではなく「奴隷」と言う言葉をわざと使いました。 僕は自分の意思で仕事を選び、その仕事が要求する事を行うので自由な人です。 しかし、奴隷は自分の意思を示すことはできません。ただ、主人に盲目的に従わなければならないので、自由が全くありません。 勿論、支配する権力など持っていません。 このように、奴隷は弟子たちの模範です。 イエスの弟子たちは命令することによって人々を使うのではなく、終わりまで自分の命を与えることによって人々に仕えるのです。

    キリストの弟子として、忠実に私たちの使命を果たすために、イエスを模範とすることは第一のことです。 そして彼の言葉に注意深く耳を傾けることも大切です。 特に、自分の近くにいる人々の世話をしながら 私たちはイエスの栄光と永遠の喜びを分ち合うようになります。 忠実な神の僕である聖母マリアが、私たちが愛の内にお互いの奉仕を実践するために助けてくださいますように。 アーメン。



        年間第30主日 B年   20151025日    グイノ・ジェラール神父

                 エレミヤ 31,7-9  ヘブライ 5,1-6  マルコ10,46-52

    エリコの町の盲人バルティマイの癒しは、エレミヤの預言が完全に実現されたことを現します。 エリコの町の人々がよく知っている物乞いのバルティマイは、イエスに癒される前に希望で満たされた叫びをあげます。 癒されてから彼の叫びは神への賛美の叫びに変わります。 盲人のバルティマイは、はっきり目が見える人となっただけではなく、キリストの弟子となるために、彼はすぐに自分の意思でイエスに従います。

    この日バルティマイは、イエスと共に徴税人ザアカイの家に入ります。 ザアカイはよく知っている物乞いのバルティマイを見て、イエスに次のように誓います。 「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。 また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します」(ルカ19,8)と。 このようにバルティマイの癒しの恵みは、徴税人ザアカイの苦悩していた心を癒しました。 イエスが示した憐れみによって、二人は喜びのうちに一致してキリストの平和が彼らの心を満たしています。なぜなら、 ザアカイとバルティマイはイスラエル人の社会から追い出されていました。バルティマイは自分の障害が原因で、ザアカイは異邦人との交わりのせいです。

    イエスはとても近くにおられるので、私たちが叫ぶ信仰の叫びに愛の力を持って応え、癒しと回心の恵みを豊かに与えられます。 ヘブライ人への手紙が教えているように,人々が神と親しい関係を結ぶことが出来るように、イエスは神に執り成す責任を持っています。 私たちの心の内に愛と希望の飛躍を生み出すことによって、イエスは父なる神の方へ私たちを引き寄せます。 預言者エレミヤが告げたように、イエスは父なる神に導く良い道であり、信仰の交わりのうちに人々を集め、そしてすべての人々に永遠の愛を示します(参照:第一朗読)

    キリストの後を喜びのうちに歩くために、今日バルティマイはイエスに向かって信仰と希望の叫びを叫ぶことを教えています。 イエスと共に留まる私たちの熱心な望みは、必ずどこかで誰かの心の中に回心の恵みと赦しの喜びを注ぐことをよく知ってください。 私たちの個人の賛美の祈り、あるいは教会的、共同体的な賛美の祈りも世界の人々のために、祝福と救いの溢れる泉です。 私たちが宣言する信仰も父なる神はすべての人に望む平和と一致の力をもたらします。

  ですから、私たちは「神が口から吐き出すなまぬるいキリスト者」(黙示3,16)にならないように気を配りましょう。 この世の思い煩いが私たちの信仰を塞いでしまわないように、直面した失敗が私たちの希望を奪わないようにしましょう。 そして私たちの宣教するための熱心さと至る所でキリストの証人として生きる決意が、人々の批判的な反応や人々の悪口に対する恐れが私たちの決意の妨げとならいように努めましょう。 ご存知のように キリストに向かって叫ぶ人を世間は黙らせようとします。 また日常生活のさまざまな活動は、自分自身のため、そして他の人々のために祈り、執り成す使命を持っている私たちを邪魔しています。 ですから、いつも目覚めて生きていきましょう。

   バルティマイと共に手を高く上げて、世界の人々の名において、信仰の叫びを叫びましょう。 「ダビデの子、主イエスよ、私たちを憐れんでください」と。 そうすれば、私たちの目が大きく開き、その目で神の救いを見ることができるのです。 そして、心の喜びが溢れて、年寄のシメオンのように私たちも次のように言えるでしょう。 「主よ、今こそあなたの僕である私たちを安らかに去らせてください。 私たちがこの目で、すべての民に整えたあなたの救いを見たからです」(参照ルカ2,29-30)と。 アーメン。



      年間第32主日B年    2015118日     グイノ・ジェラール神父

              列王記上17,10-16  ヘブライ9,24-28  マルコ12,38-44

    福音のやもめは賽銭箱にレプトン銅貨二枚、即ち1クァドランスを入れましたと聖マルコは教えています。 これだけを聞くと私たちはこのレプトン銅貨二枚の値打ちは全く解りません。 しかし、計算をした専門家たちの話によると、入れたお金は25円を超えていません。 とても少額です。 しかし、貧しいやもめにとってそれは生きるための全ての生活費でした、と翻訳されていますが、聖マルコは「それは彼女の命の全てだ」と書きました。 なぜなら、ギリシャ語でolos to bion(オロス・ト・ビオヌ)と書かれていますから。

    聖マルコがこのように書き、そしてイエスが模範としてこのやもめの話をする理由は、私たちに非常に大切なことを理解させるためです。 つまり、福音のやもめは何も持っていません。 貧しい人の中で貧しい者として、このやもめはイエス自身が行なったように自分の命を完全に与える人です。 神の子であるイエスは、「豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。 それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです」(2コリント8,9)と聖パウロが教えました。 イエスと同じように福音のやもめは持っている物全部を与えただけではなく、自分自身と共に自分の命をも与えようとします。 もっと不思議なことは、彼女は自分よりも貧しい人に持っている物を与えませんが、既に贅沢な生活を送っている律法学者にそれを与えます。 イエスは、この人たちをいつも公に厳しく批判します。 彼らは「やもめの持っている物をすべて食い尽くす」(参照:マルコ12,40)からです。 彼らとは、金持ちの律法学者であり、偽善者で宗教的な指導者また最高法院の高慢な議員たちです。

    十二月の末になると典礼暦が終わりに近づきます。 そして、その時期の日曜日の朗読は全て世の終わりについて語ります。 この世の終わりの一つの特徴は、全ての状況と状態がひっくり返されます。 貧しい人と見捨てられた人が喜び、憐れみを示さなかった、富んでいた人々は苦しみの中で見捨てられると聖書は教えています。 この逆転劇を思い起こしながら、私たちは今日の典礼の二つの話に耳を傾ける必要があります。 預言者エリヤの時代のやもめも福音のやもめも、生き残るために必要であったものを全て与えました。 同時に、世を救うためにイエスは、自分自身の命を与えました。 生きるための全てのもの、そして自分自身の命を与えることはそれ以上に偉大なものがないことを私たちは良く知っているからです(参照:ヨハネ15,13)。

    今日の二人のやもめは何も願いません。 彼女たちは物乞いもしません。 むしろ自分の全てを与える人です。 彼女たちは、何も持っていないので、有り余る中から物を与えることができません。 生きるための物、全部を与えます。 ですから、私たちが永遠に生きるために、ご自身とご自分の持っている物全てを与えた神に、この二人のやもめは良く似ています。

    今日の朗読のメッセージが、私たちの目を開くように、私は希望します。 ほんの少しの油と一握りの小麦粉やレプトン銅貨二枚は、この二人のやもめを真似るべき者としました。 無償で利益や報いを求めずに、下心を持たない人生こそ、美しく模範的なものです。 二人のやもめの上に、神とイエスが注いだ眼差しによって、この二人は変容されて有名になりました。 イエスは福音宣教活動が始まった時「心の貧しい人は幸い」と言いましたが、マルコの福音の中でイエスの最後の教えは、すべてを与える貧しさを褒め称えることで終わります。 なぜなら、すぐ後に、イエスは私たちに自分の命を与えるために受難に入り、私たちのために自分の命を与えるからです。 なので、イエスに感謝と賛美を捧げましょう。 そして、なによりも先ず、「私たちのためではなく、私たちのために死んで復活されたイエスに生きる」(参照:ミサ第4奉献文)意志をイエスにはっきり示しましょう。 アーメン。



       年間第33主日 B年   20151115日    グイノ・ジェラール神父

              ダニエル12,1-3  ヘブライ10,11-1418  マルコ13,24-32

     「黙示録」という言葉遣いを利用して、聖書全体は世の終わりについて語ります。 私たちにとって黙示録は解り難いです。 今日では「アポカリプス」即ち「黙示録」という言葉は、大勢の人にとって想像を超える大惨事を招く災害と同じ意味です。 しかし、「アポカリプス」というギリシャ語の単語は、ただ「啓示されたもの」を意味します。 従って、私たちの目の前で起こっているすべての出来事の本当の意味を、聖書は啓示しようとします。 神によって予想された出来事はそれぞれ目的を持っているので、私たちはその意味を正しく理解するべきです。 このすべての出来事は私たちを恐怖に陥らせるものではありません。 特に、私たちはその出来事に対して無力で何もできない時、恐れてはいけません。 なぜなら、すべての出来事は神が私たちを愛の完成と永遠の幸せに導くためであると知っていれば、それで充分です。

   今日、イエスは預言者ダニエルと同じように、人の子が栄光のうちに来られる時、その出来事に伴うしるしを告げ知らせます。 父の命令に従ってすべては定められています。 キリストが再び来られる時、創られたものはすべて混乱するでしょう。 なぜなら、創造主である神は、すべてが完成された新しい世界を創りあげるからです。 「神の国」、「新しいエルサレム」、「天国」と呼ばれるこの新しい世界には、サタンの影響も罪も死も永遠に中に入ることはできません。

    イエスも預言者たちも回心するようにと、私たちを招いています。 ですから、世の終わりに伴うしるしはあらゆる時代の人々にとって有効なしるしです。先ず、世の終わりには、個人的な終わりがあります。 それは私たちが死ぬ時です。 そして、もう一つの世の終りは宇宙万物の終わりです。 その時、すべてはキリストのうちに永遠に完全にされます。 そして、復活されたキリストのうちに希望と信仰を置いた人々にとってこの状態は、ほとばしり出る歓喜の泉となります。 栄光のうちに来られるイエスが生者と死者を裁くために来られることを私たちは信じています。 しかし、この裁きに対して私たちは恐怖を抱くべきでしょうか。聖書と教会は声を合わせて、目覚めていることや愛の行いと断食によって、絶えず回心することを勧めています。 大切なことは信頼のうちに留まることです。 私たちはイエスを歓迎するために、努力しても努力しても完全に準備できた人とはならないからです。 しかし、天使と聖人の執り成しの祈りや、イエスご自身の憐れみにより頼むことをするのは、私たちはいつもできます。

    キリストの再臨が間近に迫っているとイエスは言います。 しかし、世の終わりまで毎日イエスは私たちのすぐそばにおられることを、私たちはよく知っています。 ミサ祭儀に参加するたびにイエスと出会います。 小聖堂の聖櫃の前で祈る時、私たちはキリストの親密さに入り、イエスと対話します。 習慣的ではなくて、愛と信仰のうちに聖体拝領する時に私たちはキリストの体となります。 イエスが毎日私たちと共におられる理由は、キリストを通して神の現存に私たちの心を開くためです。 イエスは、毎日の出来事のしるしを通して、私たちが彼と出会うように深く望んでいます。 そうすれば、キリストの再臨は私たちにとって恐怖を生み出すものではなく、喜びの泉となるのです。

    従って、教皇フランシスコが提案するいつくしみの特別聖年を歓迎するために、私たちは感謝と喜びのうちに準備しなければなりません。 イエスと共に益々親しく生きるために、このいつくしみの特別聖年こそ大きな機会を与えます。 このいつくしみの特別聖年を通して、私たちは互いを互いに赦し合い、分かち合い、一致し合うことによって聖なる者、即ちキリストに似た者となるでしょう。 今、ここで、私たちの間にイエスはおられます。 信仰の目で彼を見て、どれほど私たち一人ひとりのためにイエスがいつくしみと愛で燃えているかをよく悟りましょう。 天と地がひっくり返されても、すべての台風や津波で日本が砕け散っても、火山の噴火や地震が次々と襲っても、キリストの愛から私たちを切り離すものは何もありません(参照:ローマ8,38-39)。 それを私たちは信じ、また宣言します。 アーメン。



       王であるキリスト B年  20151123日   グイノ・ジェラール神父

               ダニエル 7,13-14  黙示録 1,5-8  ヨハネ 18,33-37

    待降節に入る前に、またいつくしみの特別聖年の第一歩を踏み出す前に、私たちが栄光に輝いているキリストをよく見るよう教会は誘います。 キリストはいつも神秘的に私たちの人生の中心におられます。 特に、私たちが試練の真っ只中で、神に見捨てられたと感じて孤独でいる時、キリストは私たちの内におられます。 親密に私たちと一致するキリストによって、私たちの祈りや祈願や賛美はキリスト自身の祈りや祈願や賛美になります。 全人類を救うために神が定めた愛の計画を、イエスは復活の栄光をもって、私たちの内に完成します。

    すべての悪の力に打ち勝ったので、イエスは「宇宙万物」の王です。 イエスは「アルファでありオメガである」(黙示録1,8)、「最初の者にして最後の者」(黙示録1,17)、「すべての造られた物の由来と目的」(ヨハネ1,3とエフェソ1,10)です。 ただ、イエスの内にだけ世界の歴史が完成されます。 宇宙万物の王であるキリストは創造されたものすべてをご自分の内に集めようとします。 生まれる前に、また復活する前に、永遠の昔からイエスはすべてを寄せ集める力を持っています。

    預言者ダニエルも、聖ヨハネもイエスの本当の顔を見せようとします。 それは、日常生活の中に効果的に働いているイエスを私たちが捜し、発見するためです。預言者ダニエルにとって、イエスは「人の子」であり、宇宙万物的な権能を受けるために天の雲に乗って来られる方です。 栄光に輝いているキリストは、今までなかったことを現すために来られるのです。と言うのは、イエスは創造された世界と宇宙万物の栄光ある完成の素晴らしさを現すからです。

     聖ヨハネの黙示録は、宇宙万物の王となったイエスに対する、天で実行されている王権的な典礼に、私たちを入れようとします。ご自分の復活と父なる神との親密な生き方によって、イエスは私たちをご自分の神秘的な体とします。 信仰と互いの愛によってイエスに結ばれている私たちは、今から後「キリストの王国」と「ご自分の父である神の祭司」(参照:黙示録1,6)となります。

     イエスは「わたしの国はこの世には属していない」とピラトに答えました。 しかし、強い王権をもってイエスは私たちの日常生活の中で働きかけています。 「わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれています」(ローマ5,5)。 聖霊の助けによってこの愛を示すならば、私たちが神の国の神秘を発見することも、深く味わうこともできます。 確かに、イエスが言われたように「神の国は私たちの内にあります」(ルカ17,21)。

    この偽りの世界に対してイエスは「真理の王」として現れます。 真理とは神ご自身の命です。 ただイエスだけがこの真理を啓示することが出来ます。 神の真理を受けることによって私たちは自由なものになります(参照:ヨハネ8,22)。 言い換えれば、悪と罪はもう私たちを掴むことが出来ません。「キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。 キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からわたしたちを解放したからです」(ローマ8,1-2)。イエスこそが、あらゆる時代の全人類を自由にする「愛と慈しみの王」です。 ですから、イエスが啓示した神の神秘を悟るためには、私たちが真理の側につく人、真理の味方の人にならなければなりません。ピラトは真理を知ることを恐れて、イエスに死刑の宣告を言い渡しました。 私たちは真理の側につく人、真理の味方の人であることを見せるために、キリストに親しく結ばれている証人として、誇りを持つキリスト者として公に生きることを選びましょう。

     そうすれば、私たちは幸せになり、「神の国が自分の内にある」(ルカ17,21)と同時に「この国は私たちのものだ」(マタイ5,3)と言う事実を具体的に確かめることができるでしょう。 私たちが自分の周りに神の国の栄光とその王国の喜びを広め、至る所にもたらすことが出来るように、待降節の時といつくしみの特別聖年が助けになればと思います。 アーメン。



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